2012年12月19日 秋田魁新聞文化欄に下記の記事が掲載されました。

伊勢多右衛門氏

伊勢多右衛門氏

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◆ 平鹿の救世主/忠義な猫の父・伊勢多右衛門/簗瀬均 ◆

本県(秋田)には忠犬ハチ公の他に「忠義な猫」がいたことを2010年11月8日付の本欄で紹介した。以来、その伝説の舞台となった横手市平鹿町の地元有志による忠義な猫での町おこしが活発になっている。
平鹿郡浅舞村(横手市平鹿町)の伊勢多右衛門(1833~1914年)は凶作などに備え、困窮した民衆を救うため倉庫に米を備蓄していた。さらに勤労に疲れた村人に憩いの場を提供するため、私財を投じて浅舞公園の工事にかかった。だが野ねずみが大量に発生し、倉庫の米を食いあさり、公園に植えた樹木に被害を及ぼし、側溝や堤を破損させた。多右衛門は憂えた。
すると飼っていた猫が主人の願いをくんで、日夜ねずみ退治に明け暮れた。(伊勢家文書より)猫のおかげで民衆の命を守る米は守られ、浅舞公園も完成した。多右衛門はこの功績を後世に伝えるため、忠猫(ちゅうびょう)と刻んだ碑を浅舞公園に建立した。
もう2年前になるが、内館牧子さんが「週刊朝日」(2010年12月15日号)に忠義な猫を紹介。武蔵野美術大学のサバオという猫と対比しながら忠義な猫に光を当ててくれた。サバオは同美大の正門前にいつも座っていた猫のことだ。亡くなった後、学生たちは正門前にサバオの像を作り、寒くなるとバンダナで?かむりさせているという。
内館さんは忠義を尽くしたわけではなかろうが、学生たちはきっと慰められたり、癒されたりしたからこそ、像を作り寒さからも守る。ムサビ(武蔵野美大)の正門で、これからも看板猫として伝えられ、頭を撫でられていく幸せ」(「週刊朝日」)と記している。
サバオは大学の商品などにもデザインされている人気者だ。一方、横手の忠義な猫については、身を削って働きづめに働き、村人の命を救ったのに、猫の存在を語る人も知る人もいない現状を哀れんでいる。「サバオに比べ、あまりにもせつない。読者の皆様、横手に焼きソバを食べに旅した折りは、ぜひ浅舞公園の『忠猫の碑』に立ち寄って『よくやったね』と声をかけて頂きたい」と結ばれ、内館さんの温かな想いがにじみ出ている。
忠義な猫の飼い主である多右衛門は、川連村(湯沢市稲川町)で秋田藩の養蚕指導者だった関喜内の三男として生まれ、23歳のとき浅舞村の伊勢多兵衛(1795~1883年)の養子に入った。多兵衛は天保の飢饉(ききん)で窮民を救済した慈善家である。
当時の浅舞村は800戸、人口5千人余の規模。地主のほか小作人も多く、凶作が続くと餓死したり、借金がたまって一家離散するなど悲惨な状況になっていた。そこで、多右衛門は私財を投じて窮民救済に動き救世主と仰がれた。明治14(1881)年、功が認められ、明治天皇巡幸に際しては父と共に拝謁(はいえつ)した。
横手市役所平鹿地域局の近くに、樹齢500年以上のケヤキ「槻(つき)の木」(県指定天然記念物)がある。ここに明治15(1882)年、多右衛門は多兵衛と、県会議員の佐々木市兵衛・泰吉親子らと共に浅舞感恩講を創立。篤志家による寄付金・寄付米などを基本財産にして窮民を救おうとした。設立後は多右衛門が総理者として事業を推進したという。
さらに養蚕の振興、横荘線建設にも尽力。浅舞から湯沢に至る道路と橋の整備を国に陳情し、大幅な改善にこぎ着けた。また、孝行の徳、隋胎の悪弊を説いて回るなど「いのちの番人」の役割も果たした。
実父・関喜内は奉公人から苦労の末に肝煎(きもいり)(村役人)となり、藩の養蚕支配人に抜てきされた人物。多右衛門は実父を通して民衆が置かれた立場や気持ちを分かっていたからこそ、困窮した民を必死に守り抜いたのだろう。
この飼い主あっての忠義な猫である。民衆に寄せる深い慈悲が、奇特な猫を育てたといえる。1888(明治21)年12月20日、多右衛門が藍綬褒章を受けた時の「日本帝国褒章之記」によると、私費で公益事業に費やした総額が弐万弐千五百参拾五円余。仮に当時の1円が現在2万円だとすると4億5千70万円にのぼる。
感恩講跡地にある槻の木に、今年も12月22日から1月13日にかけてツリーが飾られ光のファンタージーをかもし出す。忠義な猫と多右衛門の足跡にもあらためて光が当たって欲しい。